ある雨の降る夜のこと。
この距離までくれば、相手の容姿は見て取れる
人影の正体は、近所に住む老人だ
「あ、すみません…、どうぞ」
横長ではあるが、尺は2メートルあるか無いかのベンチ、その真ん中辺りに悠々と座っていた私は、少し横へ動き、座るように促す
「ああ、ありがとうさん…」
老人は、ゆっくりと腰を降ろすと、遠くを見る様に視線を上げ、そのまま、何かを眺めるかの様に黙ってしまった
ああ、そうか…、と私は一人で納得した
この老人は、世間で言う、認知症の類だろう
ハッキリと聞いた訳では無いが、噂程度は聞く事もある
そう考えれば、こんな夜分に一人で歩いている事も不思議ではない
私は特に驚くでもなく、寧ろ、幾分か安心した
何しろ、自身がずぶ濡れのこのざまである
普通の人が見たならば私の方がおかしな人物に映るに違いない
それは不謹慎な考えではあるんだろうが…
「昨日は酷かったねぇ…」
「…え?」
唐突に話かけられ、言葉に詰まったが、老人は構わず続ける
「突然の警報からの空襲…危なく逃げ遅れるとこだったんで?」
「はぁ、…?」
戦争の真っ只中と言わんばかりの口調…
恐らく当時の記憶の中にいるのだろう…
相変わらず、私の反応なんて気にもかけていない様子で…
いや、そもそも私に話しているのかすらわからない
それでも、過去の時間の中から話される言葉は、当時を知らない私には興味深い物だった
現代に残る文献や資料ではなく、当時を生き抜いた人からの回想話しでもない
正に今、その当時を生きている人の話しである
過去として当時を記録した類いのものからは決して知り得ないであろう事…
その時代を生きている人の生の声…
何を考え、何を楽しみとし、そして生活していたか…
いつの間にか、私はまるで今が当時であるかの様に錯覚し、相槌を打つのも忘れたまま、老人の話しに聴き入っていた
老人の話しは、「昨日」と言ったその日が明後日になる日に立ち返ったり、かと思えばいつのまにか「昨日」が一昨日になったりと、時系列は目茶苦茶だったが、そんな事は些細な事でしかなかった
そうこうしている内に、急に声が止まった