ある雨の降る夜のこと。
「…?」
私が無意識に顔上げると、老人は凄い剣幕ですぐ前を見つめていたかと思えば、突然、身体中を引き絞る様な悲鳴を、いや、奇声と言った方が相応しい…、そんな声をあげた
「やめろぉぉおお!はなせ!はなせぇぇ…!はぁなせぇぇぇ…」
声量そのものは大した事はなく、萎縮する程ではないが、その鬼気たるや中々の迫力がある
迫力はあるが、やはり何処か微笑ましさを感じた
「まあまあ、落ち着いてください…」
家族の誰かが連れ戻しに来たのか、勿論、そこには誰もいないのだが、それは私の観点であって、この老人には現実として誰かが迎えに来ているのだろう
引っ張られるかの様に突き出した老人の腕は、骨に皮が張り付いているだけと錯覚する程に細い
私はその腕に軽く手を添え、その視線の先に焦点を置く
「すみません、差し出がましい事とは思いますが…」
我ながらおかしな事をと思いつつも、老人の様子も捨て置けない
「これ程に嫌がっていますので…」
人を諌める言葉など、普段の私であればとても口に出来ない…、いや、口にしないと言った方が正しいかも知れないが、それでも自分らしからぬ言動に違和感を感じつつも、言葉を続ける
「そうは言ってもご心配でしょうから、私がお宅までちゃんとお送りしますので… 」
よくもまあ、ヌケヌケと…
内心、笑ってしまいそうになりながらも相手を諭すと、いや、諭す振り…一人芝居と言っても間違いではないだろう、それでも、老人はゆっくりと腕を引っ込めて声を落としたが、尚も、空を睨みつけたまま、低い声で唸りを上げている
「では、今暫くお時間いただきますね」
返事を受ける、そんなイメージで少し間を置いたあと、私が軽く頭を下げると、老人は漸く落ち着いたようだ
少しの間、座っていたけれど先程の話の続きは始まる事もなく、沈黙が流れて後、私は静かに語りかけた
「そろそろ帰ろう?」
そっと手を差し出すと、無言で掴み反してくる
その力は思いの外強く、少し驚きはしたが、それよりも安堵が勝る
私の言葉を聞いてくれているか…、私を認識してくれているのか、実のところ自信がなかったのだ
「じゃ、行こうか」
ガッシリと掴まれた腕を引くと、老人は無言で立ち上がる
そのまま、私は手を離さない様に注意しながら並んで歩き始める
私の歩調は、老人には速いだろうと、そこもまた、慎重に歩調を合わせた
相変わらず無言で歩き続けてはいるが、私の手を握る力も相変わらず強いままだ
トボトボと並んで歩き続ける
私はまた、別の世界にいる様な錯覚に陥りながらも、これも悪く無い…と些か楽しくなってきた
いつの間にか雲も晴れ、辺りは月明かりに照らされている
私と違い、老人はちゃんとした靴を履いている
「こっちだよ」